ノルウェイの森

主人公のワタナベ君を中心に話が展開されます。ワタナベ君とキズキ君と直子は高校生の時、一緒に遊んでいました。ワタナベ君の親友であり、直子の恋人であるキズキ君の自殺を期にワタナベ君と直子の人生の歯車が変化していきます。

1人の死が周りの人達の今後の人生に大きく影響していく。

私の知り合いの理事長がこんなことを言っていました「私はガンで死にたい。何故ならガンは知ってから実際に死ぬまでにある程度の時間がある。その間に自分と周りの人に心の準備をさせることができるから・・・」話を聞いたとき、感銘を受けたものですが、この映画を見てつくづくそう思いました。自分の死が周りの人にどう影響を与えるのかも考えて死なないと・・・

特に自殺で亡くなった場合、周りに大きな影響を与えます。この映画がそうでした。時として他の生命を死に導かせたり、迷わせたり・・・

直子は死を選び、ワタナベ君は苦しみぬいて生を選びました。まさに「強く生きる」というのをテーマにした映画でした。

SP -野望篇-

SPとはSecurity Policeの略で要人の警護にあたる警察官のことをいいます。
要人を守ることを第一の仕事と考え、危害を加える人を捕まえることが主の仕事ではないようです。時には身を楯にして要人を守る。そんな仕事のようです。

SPの仕事は医療法人で働く方たち(医師・看護師・コメディカルの方々)と似ていると思いました。共通点は誰かの役に立ちたい。などの奉仕の気持ちが強い人たちの集団であるという点です。
誰かの役に立ちたいと思う気持ちは、キャリア形成において或る意味のモチベーションの向上に役立つようです。

映画の方は尾形(堤真一)と井上(岡田准一)のお互いに「この国を良くしたい」と思う気持ちの結論は同じなのに、手段が違うという葛藤を描いた映画でした。尾形は何としても井上を仲間に入れたいが井上はそんな尾形に不信感を抱きます。

お互いにこの国を良くしたいと思っている結論は同じでプロセスが違う。結論重視の世の中でプロセスが如何に重要かを改めて考えさせられた映画でした。

インシテミル

この映画はライアーゲームやカイジに似ています。

これらの根底にあるのは、他人をどこまで信じられるか・・・とても仲の良い友人なら兎も角、ほとんど知らない人をです。ライアーゲームでもそうでしたが、助かる道はただ一つ「他人をどこまで信じられるか」でした。

いかに話し合って、納得してもらい信じて信じられるか・・・

それしか生き残る道はありません。始めに殺人が起こった時、この中の誰かが殺人犯だと決め付けていた時点でちょっと無理がありました。組織が仕組んだ罠だと誰も言わなかったのです。あの時点でそう仮定して一致団結して問題に取り掛かっていたら、第2の殺人は起こらなかったはずです。

連鎖的に殺人が起こっていく・・・

組織でもそのようなことが起こり得ます。一つの不信感から連鎖的に組織内に不穏な空気が広がっていく・・・早めに対処しないと大変なことになるというのが良く分かる映画でした。

悪人

主演の深津絵里さんがモントリオール主演女優賞をとったことで、かなり有名になった作品です。

かなり期待して観に行きました。見終わった後の感想は、告白やゼロの焦点を観た後に感じたような閉塞感・・・

そんな風にしか生きれなかったか?

登場人物にそんなことを感じてしまったお話でした。

自分の行動は自分だけではなく、周りの人にかなり影響していくものとつくづく感じました。

愛情とか友情とかは、コツコツ積み上げて徐々に蓄積していくものと考える私には、ちょっとやりきれない気持ちにさせる映画でした。

インセプション

インセプションは、日頃人々の夢の中に入り込みアイディアを盗む仕事をしている主人公が、今回は夢の中に入り込み潜在意識の中に、ある感情を植え付ける(インセプション)するという話です。

無形資産が重要視される現在に無形資産のあり方を考えさせる映画かと思いましたが、想像とは違うものでした。

この映画を観て思ったことは、現実と夢って何が違うんだろうと説いた時、
1.現実では登場人物全てにその時起こったことが記憶として残るけど、夢は見た人の一方的な記憶にしかならない。
2.夢で死んだり怪我しても、現実では死んだり怪我しない。

ということが私が感じたことでしたが、この映画は夢を何人かで共有できます。その場にいた人の記憶として残ります。

上記2はこの映画の中でも同じで、夢の中で死んだり怪我しても現実では死んだりしませんが、上記1は映画では全く違います。

夢の共有がもしできたら・・・それは現実と何ら変わりがないんじゃないかとさえ思いました。不思議な感覚の映画でした。現実の世界でも夢のような出来事ってありますよね。それが夢でないと確証できるのは、他の登場人物が同じ記憶を共有するからでその保証がなければ、夢のような出来事も夢と同じになってしまいます。そうすると、夢と現実がごっちゃになって訳の分からないことになってしまうのです。

やはり、睡眠中の夢は夢のままの方がいいですね。希望としての夢は叶った方がいいですが・・・

プレデターズ

究極の環境で人はどう生きるか?というのを考えさせられた映画でした。

気が付いたらそこは、人間狩りが行われている宇宙空間の知らない世界だった。ということからスタートします。得体の知れない生物に命を狙われます。それはまるで狩を楽しむかのように・・・獲物である人間はたまに補充されます。突然パラシュートで上からやってくるのです。得体の知れない生物は物凄く強く人間が太刀打ちできる相手ではありませんが、たまに人間にやられます。
やられると何故やられたかを研究し、バージョンアップして再び現れます。

これは現在の社会にも置き換えられます。逃れられない島は地球。人間は中小企業、得たいの知れない強い生物は大企業。

大企業は何故強いのか?その置かれた外部環境に対応し、内部資源を充実させて、常にPDCAサイクルを繰り返し、バージョンアップしているからです。多くの中小企業は大企業にやられて消滅します。しかし資金や資源が少なく圧倒的に不利な中小企業でも生き残っていくものもあります。それはニッチな優れた知識であったり、技術であったりします。そんな風にも読める映画でした。

孤高のメス

1988年まだ、脳死肝移植が認められてないこの時代に、患者の命を救いたいと願う医師と、脳死前にはボランティア活動をしていたドナーとその母、ドナー提供者を望む市長の家族の話

自分の母親が田舎の病院でたらいまわしに合って、その結果母を失ったドクターの主人公は、いつか田舎の病院でも人の命を救える医療を提供したいと外科医になる。そして、敢えて田舎での医療を行い目の前の患者を救うことに徹底的に拘ります。

組織内にあるつまらない慣習や制度には拘らず、あくまでも患者を救うというそのことだけに、エネルギーを集中し、命を燃やします。「この国でそれをやったら刑事告訴を受けるかもしれない」「成功しても、失敗しても地獄だぞ」と忠告をしてくれる人もいる中、「ドナー提供を望む親族とドナー提供者を待つ人がいて、それでも私がやらなければその方がよっぽど悪である」と言い切り、違法でありながら手術をするという話です。

100%脳死であったことを証明できた点とドナー提供者の母の陳述書により、刑事罰にされることもドクター免許を剥奪されることもありませんでした。

病院内だけではなく、色々な組織内に悪しき慣習が存在して、この病院では重症患者は慶応医大に回すというのが悪しき慣習でした。もし、移送中になくなったら、その人の寿命だと・・・

そんなことをしたら手遅れになる。とドクターは言い、医療器具も不備の中でも様々な手術をこなしていきます。この医師の判断はただ、患者を救いたいという事だけで、患者にとって何がベストなのかということを考え、今すぐ自分が手術をするということがベストであると結論づければ実行します。判断基準にブレが生じません。見ていて正義感の沸いてくる映画でした。

僕たちのプレイボール

メジャーリーグから転落したマイナーリーグの現役選手の父とリトルリーグ・ワールドシリーズ出場を夢見る息子の二人の物語です。

メジャーリーグから転落した父は肩を壊し、また、いつかメジャーリーグに這い上がりたいと願うがなかなかうまくいかない。年齢はどんどん上がっていくし、妻からはいい加減諦めたら?と言われるし、それでも夢を捨てられない。肩が壊れて動かなくなるまで野球をやりたいと父は言います。

ジェームス・ディーンや山口百恵のように人気絶頂の時に本業を去るのがカッコいいと思った時期もありましたが、今は、カズやこの映画の父のように好きだからこそいくら無様な様を見せつけたとしても、やり続けるというのが、本当の意味でカッコいいのかなとも思えるようになりました。

この映画の面白いところは、息子の方です。アメリカ帰りの息子は日本の地元リーグに入るも、練習のやり方からチームの意識の低さ、レベルの違いなどに葛藤しながらも成長します。これを見ていて、企業(組織)に似ているなと思いました。球児(息子の名前です)がいくら実力があっても、志が高くても、一人だけ頑張っても、リトルリーグに行くことはできません。チーム内はうまい人、下手な人、いずれはプロになりたいと思っている人、楽しいだけで野球をやっている人、様々な人がいて、チームが成り立っています。

チームに入りたての頃、生ぬるい練習に苛立ち、こんなんじゃリトルリーグに行けないと、チームにあたり逆にチームから孤立化したりします。自分がスランプの時、仲間のファインプレーで救われたりもして、そこからチームが1つになり、リトルリーグのワールドシリーズまでいくお話です。

チームの仲間が一つの方向に向かって立ち向かっていく。組織と一緒です。一人一人バラバラに動いていたら、良い部分も消されてしまいます。個の良いところを消さず、集団も成長するにはどうしたらいいかを考えさせる映画でした。

のだめカンタービレ 最終楽章

前編は正月早々に見ました。正月だからいい音楽でも聴きたいなという軽い気持ちでした。
ところが、はまってしまいました。ダメオケ(駄目なオーケストラ)を一流まで持っていく千秋先輩の真剣さに・・・はじめは、随分熱心すぎる千秋先輩にオーケストラはついていけない感じでしたが、その真剣さ一生懸命さに団員が次第に惹かれ立派なオーケストラに変わっていきます。正直、予想以上に良かったです。

後編は千秋先輩とのだめの恋愛ものになりそうで、これも期待していなかったのですが、前編見たし・・・ということで観ることにしました。

そこで、またしてもやられました。ピアノに正面から向き合っているか?というテーマに加え、

「いくら苦しくても、気が遠くなるほどの孤独な戦いが待っていようとも、こんな喜びがあるから、何度でも立ち向かおうと思えるんだ。」

という台詞のシーンで不覚にも涙しました。前編・後編通じて、期待以上の良い作品でした。

インビクタス 負けざる者たち

南アフリカの大統領だったネルソン・マンダラの奇跡の実話。

マンダラは白人政権の転覆企てた反逆罪として、27年間監獄生活を余儀なくされました。その投獄中に心の支えにしていた詩が”インビクタス”。これは、たとえ体が自由にならなくても、魂は自分のものという強い意志の詩で「私は我運命の支配者、我が魂の指揮官なのだ」という詩です。

マンダラは釈放されて、南アフリカ初の黒人大統領に就任します。新政権の警護班は黒人で固められていたため、4人の白人警護班を追加配置しました。その時、黒人警護班のリーダーが「何であんなやつらを入れるんですか?やつらは貴方を27年間も監獄に入れた連中ですよ。」と言います。マンダラは言います。「過去は過去。暴力に暴力では何も解決しない。赦しが赦しだけが、魂を自由にする」と…。

この時、南アフリカは不況、失業、犯罪…、山のように問題を抱えていたが、マンダラ大統領はその根底にある問題は白人と黒人との人種問題だと悟り、ラグビーのワールドカップでの優勝が白人と黒人をひとつにすると考えました。そして南アフリカの恥とまで言われた弱体南アフリカチームをワールドカップ優勝までさせる奇跡の話です。

至る場面でマンダラのメッセージが深い言葉となって心を熱くします。南アフリカラグビーチーム主将をお茶に招いて語るシーン、スプリングボクスのエンブレムやユニフォームを変えようとした国家スポーツ協議会に対しての「今は卑怯な復讐を果たすときではない」と諭すシーン。秘書の女性に対しても私はあなたを認めていますというのが分かる接し方。マンダラの人としての完成度の高さ。

それにこの映画は究極のリーダーシップ論が学べます。マンダラ大統領が社長や理事長なら、ラグビーチームの主将のフランソア・ピナールがマネージャーや院長だったら、どんなに良い企業や病院になるだろうと思いました。社長や理事長にも見ていただきたい映画でした。